人間観察妄想記 Vol.4
下北沢のヤエさん。
下北沢のビストロで、そろそろ閉店かしらというタイミングで、なだれ込むように店内に入って来た。
60代後半くらいのその女性は、鮮やかな紫色のブラウスに、綺麗な黄色のスカーフを首に巻いて、派手なメイクがモシャモシャヘアーによく似合っている。 「あーあ!やんなっちゃう!ビールよ、まずは!」
どうやら常連さんらしい。
ーここからは妄想ー
女性の名前は、ヤエさん。
19歳のときに、三軒茶屋の酒屋へ嫁いできたヤエさんは、よく酒を飲む明るい性格で、
舅や姑にも可愛がられ、その愛嬌のある笑顔で、商店街でも人気者だった。
そんな優しさに応えようと毎日懸命に働くヤエさんだったが、旦那は仕事をサボってばかりで女癖が悪く、度重なる浮気に悩まされるようになる。
はじめは只々ショックで泣いているだけだったが、大人になってくると、いろいろなことがわかり始める。
舅と姑が優しくしてくれるのは、そんなダメ息子への後ろめたさがあったからだった。
旦那の浮気が発覚しても、舅は知らないふり、姑は唐突に休みをくれたり、寿司屋に連れて行ったりしてごまかした。
何も知らずに、東京に憧れてのこのこと嫁に来た自分を、商店街の大人たちも影で笑い者にしていると思っていた。
けれど、隣の豆腐屋や金物屋のおやじも、精肉屋の女将さんも、本当にヤエさんを可愛く思って心配していた。
ヤエさん、26歳。
師走の雪が降ったあくる日の朝、ヤエさんがまだ幼い息子を負ぶって、かじかむ手をさすりながら洗濯物を干していると、悪びれもせず朝帰りをしてきた旦那が、コタツに潜り込みくわえ煙草で「さみぃーからそこ閉めてくれよ」と言った。
その瞬間、ヤエさんの中で何かが音を立てるようにぷっつりと切れてしまった。
干しかけていたオムツを片手に握ったまま、買い物袋に財布と自分の茶碗と箸を突っ込んで家を飛び出した。
その背中に姑は、
「跡取りは置いていけー!」と叫んだ。
泣きながらあてもなく歩いて下北沢まで来たとき、ふと、涙と鼻水を拭いているのがオムツだと気付いて、思わず吹き出した。
大笑いするヤエさんにつられて、背中の息子もキャッキャと笑い声を上げていた。
それは、寂れた連れ込み宿の前だった。
宿の女将は訳も聞かずヤエさんと小さな息子を
しばらくタダで置いてやった。
年越しそばも、女将と啜った。
それ以来、ヤエさんは今でも正月が嫌いだ。
40年が経ち、ヤエさんが経営する下北沢のスナックは、みんなのお悩み相談室。
そして時には家出少女や、家出主婦の駆け込み寺となっている。
旦那の浮気を疑って愚痴を言う主婦に、ヤエさんは言う。 「じゃあアンタは、旦那にちゃんと優しくしてたの?でしょ?居場所なかったんじゃないー?」